第98章
陽子はかぶりを振り続けた。いきなりなんだ。映画を観て泣いていたではないか。いや、もともとこういう男であるのはわかっていた…つもりだ。だからこそついさっきのごく普通の映画鑑賞における静かな室内に、陽子は安心しかけていた。男に人間性を見出したのか、あるいは見出したかったのか。
「…そんな…どうして…さっきまであんなに…」
「?…さっき?…ああそうだね…気が変わったのさ…」
だからこそこの豹変振りは衝撃を与えるに充分だった。いや、やはりこの男はこういうのが目的でここに来てるのだ。
「…そんな…ひどいんじゃない?…会う度にこんななんて…たまには…」
「た、たまにはって…どういう…」
男が口ごもった。陽子は、今回は説得が効くのではないかと思った。確かに"気が変わった"と言った。男も最初はそのつもりで来たのではないのだろう。
「…映画観るだけって…言ったじゃない…」
いや、これでは説得にならない。単なる拒否だ。
「…たまには…静かに…いい感じで…」
うまく言葉が思いつかないし、目もなんとなく合わせづらい。しかし武史には伝わったようだ。もともと今日はどことなくおどおどした目をしている。素直に首を縦に振った。
「…そうだ…そうだったね…うん…」
「…」
少しの間沈黙が流れた。陽子はうまくいったと安心した。しかし意外な気持ちもないわけではなかった。確かに頭の中は"NO"だ。しかしさきほど目線が男の股間に釘付けになった、肉体の"YES"の意思はそのままそこにあった。いま目線を合わせられないのは、無意識にその自分を気づかれたくなかったからだ。
男は冷めた欲望をしまい込み立ち上がった。そして同時に膝に置かれた手を取って、その陽子も引き上げようとしたとき、前に踏み込んだ足が陽子の脇腹にこすれた。
「アフゥンッ!」
時が瞬時に止まったように思えた。驚いたのは陽子自身だ。本人は驚いたつもりが、外面にはどこからどうみても悩ましげな表情にしか写らなかった。
…すすっ…
「アッ…ンハッ…」
慌てて陽子は表情を取り繕う。しかしひとりでに声が出た。その触感から逃れようと身をよじるも逆効果だった。くねる肢体が敏感な身体を主張するだけだった。
ぐっと男の手に力がこもった。ダンスの誘いのように差し伸べた手が手首を掴みなおした。
「…やっ…」
「だ…だめだ…」
両手が引き上げられバンザイをさせられる。正座したまま足が思うように動かず陽子はもがいた。
膝を立てることができれば立ち上がれた。正座は短い時間だったので痺れているはずもない。皮肉にも立てないのはもがいているからだった。立つにはいったん前のめりになる必要がある。どうしても相手を遠ざけようとするため体は後ずさりながらもがいた。
「…やっ…やっやっ…」
じたばたと陽子は抵抗した。正座しながら後ずされるわけがない。もがきながら陽子は男に後方へずるずると引きずられていた。
横から足を回し膝が立った頃にはもう遅かった。二人のコースは曲がっており、陽子の背中はベッドの縁に着き、もう後がなかった。この前とそっくりそのまま、目前での射精が行われたあのときとちょうど同じ体勢だ。
男はあのときと同じように陽子の両手首を片手でまとめ上げた。そして自由になった手で自らのベルトをもどかしそうに緩めた。
「…口あけろ…」