第70章
陽子がいまの会社でなく、その前の会社を辞めたのが3年前である。失業保険の適用外だった。そして先日辞めた会社も不景気の世情にたがわず、あらゆるコストダウンを実現し続け、切り盛りを図っている様子は雇用者誰にでも理解できた。才能あるテクニシャンを安い人件費で雇用できるのは会社としても経費削減に大いに助かる。陽子の中途採用がすんなり実現したのもそういうためだったのかもしれない。
従って同年代の社員と比べて給与のほうが一段下だということは、陽子もうすうすながら感じていた。人一倍残業の多い部署に配属され、リーダーとして会社に精一杯尽くしてきた。残業のカットラインを大幅に超えても文句一つ言わずに精励したのだ。周囲の人たちは陽子に尊敬のまなざしを送っていたが、実情はそんなものであった。
仕事ばかりで遊ぶ暇がないのだから確かに貯金は増えていった。しかし入ってくるものが少ない分、増えたといってもスズメの涙ほどでしかなかった。生活を維持する上では困りはしなかったが、将来、金銭的な夢を持つことなど到底考えられなかった。
便りにしてもいいはずの元彼、聡から無心されることさえあったのを思い出した。
ちょこちょこ少ない数字でも回数が重なればちょっとした金額になる。恋人のためと思えば返済の期待もせずに出してやってはいたが、別れたいまではそれさえも空しく思えてくる。
そういうわけで実際、今回の武史からの送金は実にありがたいものだった。いまの陽子にとっては誰からのものであろうとお金はお金である。少なくともしばらくの生活に困窮するようなことはない。今度はゆっくりと新しい仕事が探せる、まずは慌てて無茶な選択をすることのないようにと、少なくともそちらの方面には安心することができた。
その送金から数日間、武史からの連絡は途絶えていた。悪夢の夜の記憶は次第に薄らいでいた。しかしもちろん消えるわけなどなかった。口と鼻の奥の"あの"匂いもやっとようやく退いていってくれたようだ。ここ数日は鼻で息をするたびにほのかな精液の匂いが陽子を襲っていたのである。あろうことかその都度、身体が熱くなるような感じがしていた。
しかしいまは落ち着いた状態である。金銭的に慌てなくても良い分、元の生活にもどれたような気がしていた。ピルは毎日内服していた。念のためというより毎朝、朝食をとるたびに思い出すようになっていたのである。服用しないでは一日が安らかに送ることができなくなっていた。副作用など全然なかった。ただ、数日前から少々便秘気味であった。思えばあの夜以来、通じがない。あれだけ出したのだから当然かとも思ったが今朝になってみると少々おなかが圧迫されている気がした。
そして今朝も、朝食と錠剤の服用を終え、重ねた食器類を持ち、お茶を飲むため沸かしたお湯を取りに台所に出た。
ふと、玄関に目が行った。取りに忘れていた新聞がまだ差込口に刺さっていた。やかんの火を止めポットに注ぎ、持ちながら玄関に向かい新聞を抜き取った。玄関のドアには郵便物の差込口がついている。その大きな受け口のポケットに何通か手紙が入っていた。陽子はそれらも新聞と共に持ち、テーブルに戻った。
お茶をマグカップに注ぎ、すすりながら新聞を見た。あいかわらず政治家のスキャンダルにマスコミは奔走しているらしい。肝心の国家運営の停滞にいいかげん誰か不審に思わないのかと感じた。楽しみにしている書評欄も拾い読みしていいものがなさそうに思うと、陽子は新聞を閉じた。新聞を足元に置くと何通かの手紙がテーブルに残った。おそらくほとんどはダイレクトメールだろう。こんな町外れでもいやらしいアダルトビデオのチラシが封もされずに裸のまま投げ込まれていることがある。女性の一人暮らしへの無遠慮な売込みに腹を立てることもしばしばだった。それがないだけ今日はましなほうである。
しかしそのなかで封筒に陽子の宛名が手書きされているものがあった。
(!)
裏返してみると、先日面接した会社からのものだった。
急いで糊付けを剥がして中身を取り出した。
(…ああ…やっぱり…)
不採用の通知だった。例によって丁寧な文章でこのたびは見送らせていただくだとかなんとかのお決まりの文が続いていた。
(…だめだったか…)
しかしさほど落胆は激しくなかった。逆にもっとじっくり勤め先を考えられる余裕が出来た気がして、意外と開放された気分だった。
(気にしない…つぎがんば…)
くずかごに投げ捨て、残りのDMを暇つぶしに眺めた。趣味講座、ソフトウェアの販売、格安の旅行、どこから住所を調べたのかいろんな種類の誘いが飛び込んでくるものである。次々に開いてはくずかごへ放り込まれていった。
(?)
最後に奇妙なものが残った。縦型でない、横に広いきれいな白い封書だった。奇妙なのは何も書いてなかったからである。切手も貼ってないし住所も何も書いてない。真っ白だった。
(郵便でなく直接の放り込みか…)
大きく開いたV字の糊付けを剥がして中身を取り出した。
裏返された写真が一枚、入っていた。
(?)
裏返して写真の表を見た。初めなんだかわからなかった。
(??)
全体がぼやけている。まったくのピント外れだった。いや、ずれてない部分もある。なにが映ってるかわからないため、縦に横に回転させてみた。
どうやら逆さまだったらしいことがようやくわかった。画面中央の向こう側にティッシュボックスらしきものの端が見えたのでわかった。では全体の半分ほどを覆っているこの肌色と光る黒色はなんだろう。
(…あ…)
その肌色は手だった。だから上のほうで広がっている。上のほう、これは親指下のふくらんだ部分だ。ぼやけてかすかながら皺も見える。枠ぎりぎりのところに指の付け根があるため向こう側の空間が見えた。そして手首のほう黒色に見えるのは…手枷だった。
(…い…や…)
ベッドの頭のほう向こう側の壁にピントを合わせた手の極度アップの写真なのだ。よく見るとティッシュの横の壁に白い雫が飛び散って垂れているのが見える。武史の飛びすぎた精液なのだとすぐに察した。陽子は目を離すことが出来なく、写真に顔が近づいて凝視してしまっていた。
そしてもっとよく見ればティッシュ他、周囲の景色は確かに少しだけピントぼけしているが、手と思える箇所のアップはさらに一段とぼやけていた。
(…こ…この…写真の…わた…し…)
陽子は察した。この手はぼやけているだけではない。揺れているのだと。
(…おか…され…て…る…)