第172章


陽子は携帯が気になっていた。いまあの男はどうしてるだろう。具合が悪いまま仕事をしてるのだろうか。休日前でもないのにあそこまで飲ませたのはやはりやりすぎだったかもしれない。現在無職の自分は毎日が休日のようなものだが、男のほうはそうでないと気づいたのは今朝出かける背中を見てからだった。

しかしだ。暇をしてるのは男もわかってるはずだ。あんな状態で行ったのだからなにか一言でもあったっていいだろう。実際何回か携帯を握った。"大丈夫?""治った?"しかしその一句さえ送れない。こっちから声を掛けるのはやはり筋にあわないからだ。

かくしてまた夜がやってきた。今日は誰とも言葉を交わしてない。あえてそうしたわけではないが、他の誰かに自分から誘う気にならなかった。陽子はいま、あの男以外に外界との接触を望んでいなかった。それ自体があの男の要求であり希望のような気もする。しかしだからといって…。でもいつしか自分はそれに従おうとしている。そして不思議なことにそれが全く嫌でなかった。

結局夜の7時になってやっとメールが入った。陽子は携帯に飛びついた。たった一言だった。


―――今日は行けない―――


愕然とした。良かった、胸を撫で下ろせばいいのだ。なのにこみ上げるのは残念な気持ちだけだ。
やはり夕べのことか。しかしいくらなんでももう酒はさすがに残ってないだろう。疲労でやる気も失せたのだろうか。
合点がいかない。ヤラなくたって来るぐらいできるだろう。一緒に食事したっていいじゃないか。そして疲れた体をこのベッドで休んでいってもいい。強い酒なんて飲ませないから。せっかくこっちは気を許せる間柄になったと思っているのだ。

いやどうでもいい。しかし…気になって仕方がない。

陽子はまた携帯を開いた。さきほどのメールを見て返信ボタンを押す。


―――どうしたの?―――


送信ボタンを押したとき"敗北"の二文字が頭をよぎった。
いまあの男は返信を見てなにを思っているだろうか。こちらから誘うのを見て勝利感を得ているか。だとしたら一目散にこの部屋へ向かってくるか。ドアを開けた途端いつかのようにズボンを下げ自分を求めてくるか。


「…ごくっ…」


胸がドキドキした。それは陽子の本意ではない。本意ではないのに期待と脅威で胸が高鳴る。正確な気持ちが伝えられない。いやこの気持ちがどのようなものかさえ自分でも図りかねているのが現状だ。なにを思って送信ボタンを押したのか後悔の念が立った。

あきらめかけたころ返信があった。


―――残業でいけないんだ―――


そうか、仕事では仕方ないだろうしょうがない。陽子はいつものテーブル前に戻った。しかし携帯をじっと見ながら思った。


(―――本当に仕事か?)


いまの時間差はなんだったのだろう。長いといえば長い、短いといえば短い微妙な間だった。仕事しながら隠れて返信してるならば短い気がする。逆に堂々としてるならばこんな簡単な返答には長すぎるのだ。残業というのは本当なのかという疑いを陽子は感じた。

気になる。考えれば考えるほど想像は膨らんでいく。嘘をついているのなら何なのだろう。あの男はいまなにを…


(まさか…)


返信の間はまごついた時間ではないのか。


(…ほかの女の人と…)


かっと頭の中が熱くなった。焦燥に似た感じが全身を駆け巡った。
考えられなくもないことだ。先日の一件であの男は自分から離れたのかもしれない。


(…そ…)


喜ばしいことではないか。そのはずだ。ずっとそうなることを望んでいたはずだ。このまま心が離れてくれれば好都合なことのはずだ。

落ち着かない。頭が熱い。開放感も爽快感も全く感じない。胸が…苦しい。


(…なんで…来ないの…)


あの男は自分を専有したのではなかったのか。相手はわたしだけでないのか。
絶対そのはずだ。そうにしか見えない。人は見かけによらぬものというが、直感がある。すごく強い直感だ。あの自分を求める激しさは尋常ではない。


(まさか…)


もう一つの不安が持ち上がった。


(結婚…してるの?…)


来そうで来ない夜が過去幾度かあった。辻褄は合う。いやしかし金をくれるなんて。そんなに金持ちに見えたか?。では自分は囲われた二号として…
いや、合わない。それなら期限を切るはずがない。それに…そんな歳に見えない。そんなことをするのは先入かもしれないがもっと年上の人がするに決まってる。あの男は自分とそんなに違わないはずだ。でももしかして…たまたま奥さんと喧嘩してるだけで…


(いやだ…そんなのいやだ…)


ぐるぐる考えが頭を駆け巡る。また携帯を手にし、また離した。"家庭があるのか"そんなメールをしそうになった自分を惨めに思った。しかしその惨めさは一人ぼっちの惨めさではなく、こちらが声を掛ける側になる敗北の意味だ。なにを案じてもまだ"直感"のほうが優先されていた。なによりも身体が認めてくれなかった。身体が覚えているのは直感というよりもむしろ"確信"だった。

知り合ったばかりの男なのに。非道いことをされてばかりなのに。


(来たいに決まってる…やっぱり残業なんだ…)



テレビもなにを話してるのか集中できない。読書などできるはずもなかった。なにに焦っているのかもわからなかった。イライラしてただ時は過ぎ、結局陽子は一人、部屋の電気を消した。

玄関の鍵は開けておいた。夜中一度目が覚めたが、部屋には自分ひとりだけだった。


(…いま…なにをしてるの…)



目次へ     続く

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