第158章


…トントントン…


いいにおいがする。このにおいとこの音で朝は始まるのだ。陽子は学習もそっちのけで(あまり学業のほうは必死になる必要もなかったから)、資格を取るための勉学に夜更かしをするのが常だったため、いつも母の朝食を手伝えなかった。夜型の生活をだんだん変えてるんだよ、という陽子に、それなら朝ごはんくらい手伝いなさいよ、と笑って返されたのを思い出す。母はすでに一仕事終えてから台所についてるので、かなわないということもあった。珍しく陽子が夕食を手伝っているのを弟が見るとその度ぼそっと、これは大変だ、とよくつぶやいていた。
温かい気持ちが陽子を包む。心地よい朝だ。

違う。ここは実家ではない。アパートの自分の部屋だと陽子は覚醒しながら気づいた。


…トントントン…グツグツ…


うっすら目を開けるとあの男が台所に立っていた。

驚きも怖れもなかった。意外な感じはしたものの、それは自分より早く起きて待っている久しぶりの感覚で、男に対する違和感ではなかった。


「…」


そのまま横になりながら陽子は男を眺めていた。心地よい充足感が体を包む。安らかな気持ちだった。


「…あ、起きた?」


振り向いた男が言った。あまり大きな音を立てないようにしてるつもりらしい。陽子はむっくりと起き上がった。朝の冷気が飛び込んでくる。
それを見た男が戸惑ったように近づいてきた。上着を掛けてもらって陽子は自分が全裸であることにやっと気づいた。
それでもゆったりした感じはそのままだった。男は黙って衣類を足元に近づけ置いていく。陽子はのろのろと服を身に纏った。

男は盆に朝食を乗せ、目の前に並べていた。陽子は黙ってそのテーブルについた。この部屋でなにもせずに朝食にありつくのは久しぶり、いや初めてだった。


「…よかったら…どうぞ…」


と言って男は食事を始め、陽子も椀を持った。腹の底に熱い汁がしみわたる。しだいに体に力が蘇るのを覚えた。


「…どう?」


陽子は無言で頷いた。ちょっとどころか、ちゃんとした煮物もある。ご飯はすぐに空になり、男は替りをよそってくれた。


「よかった。お口に合いましたようで。」


食事が済むと手伝おうとするのを制され、心地よい満腹感を感じながら男が卓を片すのを見ていた。

すべてが終わっていつしか横に立っている男を陽子は見上げ、二人はしばらくぼんやりと見詰め合った。
男はなにか言いたそうな感じでもあった。屈んでキスをしようとしたようにも見えたが、男は決まり悪そうに照れ、


「…じゃ、行くから…」


そう言うと後ろを向いた。


(…)


陽子の表情が微妙にゆがんだ。正直まだ居てほしかった。しかし掛ける言葉が見つからない。思いつく言葉のすべてが、劣悪な関係の自分にとってそぐわないものと思えて喉で止まる。
結局陽子は終始無言のままドアの閉まる音を聞いた。切ない思いだけが胸の中に残った。








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