第104章
次の朝、陽子は熱を伴った身体で目が覚めた。風邪でも引いたかと考えたが、そうではないことを自分がよく知っていた。
朝にしては身体が火照っている。いま起き掛けに見ていたのは抱かれる夢だ。自分の上に覆いかぶさっていたのは聡ではなかった。たぶんあの男だ。男は無言で自分を犯していた。そして陽子も男の身体をきつく抱きしめていたように思う。
気づくと布団の中で足がだらしなく開いていた。片膝が少し上がり股間に両手があった。自分を慰めながら眠っていたのだろうか。
陽子はのろのろと起き上がり洗面所へ向かった。今朝は昨日よりは気分がいい。天気も嘘のように晴れている。今日は外へ出よう。ドライブだ。
歯磨きを終えて男の香りを感じると、陽子は服を脱いでバスルームに入った。下着が少し湿っていたが気にしないことにした。バスタブに冷めた水が入りっぱなしだ。いつもは洗濯に使うのだが陽子は栓を抜き、シャワーのコックをひねった。
水がだんだん温かくなっていく。陽子は全身にシャワーを浴びた。やはり以前より身体が敏感になっているのだ。わずかにくすぐったさを感じながら陽子はボディシャンプーを全身にまぶし、タオルでごしごし擦りながら通常状態に戻ろうとした。やはりすっきりするにはこれが一番だ。
「ふう…」
バスルームから出ると陽子はバスタオルで体を拭きながらそのままトイレに入った。バスとトイレが別なのはいいがこういうときに困るなといつも思っていた。トイレを先にすればいいのにといつもながら思ってしまう。
果たして出たのは小水だけだった。便秘のはずなのになぜか便意さえない。いままでこういうことがなかったわけではない。しかし出たときは、それはすごい量が出たものだと、陽子は思い出して苦笑した。まあいい、腹が張って痛くなったときは店に行って薬を買ってくればいい。
無用心だったかもしれない。しかし陽子はこの原因が武史によるものとはつゆほども思っていなかった。意識下にある予想のせいもあった。あの男が自分に求めるのはSEXしかない。だから与えられた薬も、ピルというのは本当だろうがもう一方のほうは、有り得て媚薬の可能性しか信じていなかった。
トイレットペーパーで拭くときに陽子は気づいた。膣口にヌルヌルした感触がある。中からわずかに滲み出しているのだ。
服を着替えて陽子は身支度を調えた。コンパクトを見ながら陽子は思った。やはり化粧をすべきなのだ。身が引き締まる。
そして玄関口に向かう途中ふと洗面台を見た。
(…え?…これわたし?…)
一瞬別人かと思った。自分で言うのもなんだが、きれいとか可愛いとかいうのではない、美しかった。目の下には昨日とは違って消えかかったクマがわずかに見て取れる。いまさら気づいたが頬のニキビもいつのまにか消えている。以前とは違い赤みがかったふくよかな肌、口を少し開けて横目でこちらを見返している。あこがれていたのだろうか、艶かしい大人の女がそこにいた。
陽子は国道を飛ばした。今日は思い切って隣の県まで行ってみよう。ずいぶん前に友人と温泉にいったことがある、あそこだ。ついでだから帰りにでも遠回りの山越えをして、その途中にあったはずだ、沼を展望台から見下ろしてみようじゃないか。
山道のドライブはいい。信号も少なく定速度で走っていると心は無心に近づいて集中できる。FMの電波が届かなくなるとCDをかける。山を越え終えれば、違う周波数で運がよければ聞いたことのない番組が聴こえてくるのだ。
やがて2時間あまりもすると目的地に着いた。仕事でもここへは来なかったのでかなり久しぶりだ。もっとも内勤がほとんどの仕事ではあったがたまにはあったのだ。
ドライブが目的なので買い物をするつもりはない。もっとも金がないのだ。あの男からもらった金で楽しむつもりは毛頭なかった。しかし食事ぐらいしてもと、陽子は車を100円駐車場に止め店を物色した。歩くだけでもいいのだ。ここは人口密集地ではない。温泉を主体とする観光地だ。
(平日だと静かだねー。)
土蔵の多い街並で情緒豊かなところが良くて今日ここへ来たのだ。ぶらぶらと楽しみながら陽子は町を散策した。途中見学のできる造り酒屋があったのでそこへ入った。実に落ち着いた気分になることができ、金は使うまいと思っていたが最後の試飲に舌が感激し、つい地酒を一本だけ買ってしまった。
しばらくして風呂に入ろうと思ったが、以前来た公衆浴場はやめにした。新しく近くにスパリゾートなるものが新設されたらしい。そこへ行ってみようと陽子は駐車場に戻った。
いってみると広大な駐車場に大きな和風建築の施設があった。
(こんなもん作ったらみんなこっちに来ちゃうんじゃない?)
料金も300円と手ごろだ。駐車場はガラガラ、中も人はまばらだった。昼前後という時間帯もあるのだろう。
(スパリゾートじゃ…ないなぁこれ…)
良くいってもクアハウスというにふさわしい規模のものだった。しかし入場者数の履歴貼り紙を見ると相当な来客があるらしい。おそらく休日にはかなりごったがえすのだろう。
浴場に入るとなんと誰も入っていなかった。露天があるわけでもない。しかし広々とした風呂にずらりと洗い場が広がっていた。
(…いいのかな…)
陽子はど真ん中に身を沈めた。そして生まれて初めて言いたかった言葉を口にする。
「はぁ〜あ、極楽ごくらくぅ…」
湯はぬるめ加減、温泉だから絶えず角のところから湯がふんだんに出ている。豪華な気分だった。そこへドアから新しい客が入ってきた。
(やばっ、いまの聞かれてなかっただろな…)
入ってきたのは母親と子供二人の三人連れだった。
「走んないでよっ、まことっ」
「ひろーい、だれもいないよー」
「ほらほら、しげみもそんなにはしゃがないの」
広い浴場に子供のエコーがこだまする。悪いもんじゃない。親子連れはまず洗い場で体を洗った。しばらくして陽子も離れたところに座り身を清めた。
親子の声を横に聞きながら陽子はマイペースにゆっくり体を洗った。頭から足の先まですっかりぴかぴかにすると浴槽に戻る。すぐ後に親子も湯船に入った。
子供はじっとしているのが苦手なようだ。入ったり出たりするのを母親がたしなめていた。
「…ここら辺のかた?」
母親が声をかけてきた。
「…いえ、○×市です…」
「お休みですか、いいですねぇ。」
本当は無職なのに、と思ったが適当に相槌を打った。みると自分と同じくらい、いやもしかしたら年下のように思える顔立ちだった。
「あたし近くなんですよ。よくここへ来るの。」
「こんないいところ近くにあっていいですねぇ。うらやましい。」
「他になーんもないもん。」
話を聞くと地元の人にとっては温泉など外からの人だけのものらしい。なるほど、観光地などは決まってそのようなものだ。話していくうちに年のころもあって二人ともため口になっていった。
「あたし、生まれが東京なの。」
「へー、なんでこっちに?」
「そりゃあ嫁に来たからよ。」
「学生からの、とか…」
「ううん、ナンパ。」
女は笑った。そして身の上を語り始めた。
「うちの旦那、農家なの。こんなところじゃ嫁のきてもないでしょ。なんかの会合で東京に来たことがあって、そのときバーで知り合ったの。あ、あたし東京で水商売やってたから。」
女は笑った。陽子が地元じゃないと知って口が軽くなっているらしい。
「何ヶ月かしたころ、またあの人店に来てね、やたらあたしのこと口説くんだわ。そりゃあ真剣な感じで。聞くとなんの用もないのにあたしに会いに来るためにだけ東京に来たっていうのよ。それであたしも根負けしちゃってメルアド教えてね。」
なるほどナンパだな、と思った。しかし女は"真剣"という言葉に重きを置いてしゃべった。
「そのうちメルアドが電話番号になって…遠距離恋愛だね。そんで出会ってから一年もしたら…あたしこっちに移り住んでたの。」
「でもあの、気を悪くしたらあれだけど…東京からここじゃ…大変なんじゃない?」
女はそれを聞くとニッと笑った。
「あなた、独身でしょ…」
急に見透かされた気がした。一人で来たとは一度も言ってない。
「大変なんて…苦労なんか関係ないよ。確かにつらいことのほうが多いけど…あの人借金も抱えてたけどねぇ…それでも…幸せだもん…」
「…」
「男と女って…家族ってそういうもんだよ。あたしいまつくづくそれ感じてるんだ…」
「…」
「気ぃ悪くしないでね。」
「あ、そんなことないない…いや、いいなあと思って。」
母親は幸せそうに微笑みながら遠くを見ていた。幸福とはこういうものかと陽子は思った。
「まことっ!ヘッドロックだめっ!しげみがまた泣いちゃう…あーあーあーあー」
子供の泣き声がエコーで喧騒になった。母親が申し訳なさそうに笑いながら謝る。陽子も一緒になって笑った。
「それじゃあ」
陽子は湯船から上がった。
「うわ…」
「…え?…」
「…きれーな体ねぇ…なにかやってるの?顔もちょー美人だし…」
「やめてよぉ」
女はまじまじと陽子の肢体を見つめた。陽子は苦笑いでいなした。
「うらやましいなぁ。あれ?どうしたの手んところ赤いのがうっすら…」
「!…」
気づかなかった。腕にほんのり痣が残っている。
「…こ、こ、転んで…ぶつけちゃって…」
そういうとそそくさと陽子は脱衣場へ出た。早めに体を拭いて衣服を着た。
(…やばー)
まだそのほかには誰もやってこない。落ち着いたところで陽子は髪をドライヤーで乾かした。
(…なんか、いい話聞けたな…恋愛か…いいな…)
知らない人と話ができるのが旅のいいところだ。今日の遠出は成功とみてよさそうだ。
大きい鏡面に映しながら陽子は女に言われた自分の顔と上半身をじっと見た。
(…気のせいかな…ホントにわたし…キレイだ…)
広場に出ると数人が大型テレビに見入っていた。
(ビールビール…)
気持ちいい風呂上りにはやはりこれだ。車で来たことを思い出すと陽子はしぶしぶジュースを自販機から買い、喉に流し込んだ。
(くはー、いいやねぇ)
陽子も椅子に座ると見もしないテレビに目をやりながら爽快感を満喫した。
(…恋なんてわたし…もしかしたらしたことないのかも…)
さっきの話から、いままでの付き合いを考えてそう感じた。恋"焦がれる"という感覚は果たしていままであったのだろうか。これまでの恋愛に自分は"形"を求めていただけなのかもしれない。悔しくもいま気になってるのはあの男だけだ。恋愛とは程遠い正反対のものだ。この苦しみもひと月もすれば去るのだ。この歳で大恋愛などもうできないのだろうか。
まさかあの男から連絡が来てはいないかと思い、陽子はバッグから携帯を取り出した。"圏外"だった。