第83章
窓を完全に閉めたちょうどそのときに外の人物は階段を昇りきった。
この壁の向こうに誰かが居る。そしてこちら側にはついさっきまで欲情に耽っていた下半身丸出しの自分がしゃがんでいる。しゃがんでいるために自らの発する濃い匂いが陽子の嗅覚に届く。陽子は言われもない妄想に取り付かれた。散歩の帰りに自分でその匂いを強烈にさせてしまっていたことも手助けしていた。
この部屋はこの淫猥な匂いでいっぱいだ。ここでは自分の出したこのいやらしい空気が蔓延しているのだ。
窓からそれが漏れ出ていたのではないか。窓を閉めたとしても換気扇の通風孔などから、こちら側が尋常ではないことが知られてしまうのではないか。
陽子は錠に向かって手を伸ばす。振り払っても振り払ってもその疑念が拭えない。まさかそんなことがとは思うのだが、考えてみれば大体なぜあの男は窓を開けたのか。チャイムを鳴らしもしないでなんであいつは窓を真っ先に開けたのだ。筒抜けなのか。いまそこに居る人もこの匂いを嗅ぎ取っているのか。
(…う…ぅふっ…)
ぞくぞくっと身体が震えた。新たな暖かいツユが内腿を伝った。しかし身体の反応に気を払う余裕はなかった。陽子は気を奮い立たせ、やっとのことでクレセント錠を押し上げた。
みえなかったはずだ。ここをまじまじとみつめてでもいなければ気づかないようにしたつもりだった。その証拠に外部になんの動きもないことを知ると、陽子は大きく溜息をついた。もちろん聞こえないように。
しかし、やがて様子がおかしい事に気がついた。確かに外には誰かが居る。実際靴のじゃりじゃりする音が聞こえるのだ。しかしチャイムは鳴らないし、届け物をドアに押し込む気配もないのだ。なにをしているのだろう。やがてジッパーを開く音がして、がさごそとなにか探るような音も聞こえた。
…ビーーッ…ビッ…べりっ…
(…え?…え?…なに?…)
この場にはとても不釣合いな音に聞こえる。いったいなにをしているのか。聞き覚えがないわけではない。あれはガムテープかなんかを剥がす音だ。それほど太い音でもないのでセロテープかもしれない。まさかチラシを壁に貼る?それとも借金の催促?ならば家を間違えてる。しかしそれならばそれなりに、なぜまず在宅かどうかチャイムを鳴らさないのか。
大家がなにか張り紙をしに来た、ということも有り得る。しかしそれも妙だ。入居者の少ないこのアパートで通路に張り紙をする必要などない。なにかあったら部屋ごとに渡せば済む話だ。
…じゃり…じゃっ…カンカンカンカン…
不審人物は階段を降りていった。やっと陽子は、大きく大きく溜息をつくことができた。
「はああ…ああ…ああぁぁ…ぁぁぁぁ…」
考えてみればこんな事は初めてだ。いやらしい意味ではなく、他人に対して隠れ潜むという事がだ。負い目を持って気づかれないように身を潜めるという経験を、陽子はしたことがない。身を護るため、正当なことなのにこの重くのしかかる罪悪感はなんだ。まるで犯罪を犯して追い詰められているようだ。
(…なんで…悪いことしてないのに…隠れて…こんなかっこで…)
いつのまにかしりもちをついている。フローリングの床にヌルヌルした感触があった。
まもなく陽子は立ち上がった。まずは不審な訪問者の仕業を確かめなくてはならない。まったく最悪の一日だと思いながらぺたぺたと玄関に赴いた。
少々暗い玄関に立って、陽子は裸足のままドアの小さい覗き穴に顔を近づけた。
(んーーー?…)
「!!!!!!っ」
ガタガタッ!
陽子は動かないドアに突き飛ばされたかのように転げ、背中の壁に助けられた。
顔が恐怖にゆがんでいた。
(…あ…あいつ…だったんだ…)