第75章


階段を昇った。住人の数が少ないのがかえって、下から見られる心配がないことに幸いしている。
長く長く思えた散歩を終え、陽子は部屋に戻った。

お菓子の入った袋を放り出し、ベッドの向こうにある居間の窓とカーテンを締め切った。

ボタンを外してスカートが財布などの重みですとんと落ちた。スカートの場を離れて陽子はパンツのゴムに手を掛けた。中を覗いた。


(…う…ああ…あ…)


もあっと熱気が下から襲ってきた。湯気が立つほどだった。生々しいすごい匂いがした。

まさに洪水だった。きれいな布地は少ししか残っていない。下のほうでは粘ついた液が下着と身体の間に糸を引いて、さらにそのすぐ下にはどっぷりと小さな池を作っていた。


(…これが…全部…オシッコじゃないの?…)


そのまま屈んでティッシュを何枚か抜き取り、陽子は液が床にこぼれないようにそろそろとパンツを降ろしていった。
ティッシュの上にパンツを乗せて、床に染みないように両手で丁寧にテーブルの足のところにひとまず置いた。

分泌液の量を見るとますます恐ろしくなった。手を拭いて陽子は電話に駆け寄った。

しばらく待ってもなかなか出ない。嫌な相手に自分から掛けていることを思うと悲しくなった。15回ほどでやっと回線が開いた。


「あ、ごめんごめん…」

「…あのくすり…なに?…」


男の都合などかまっていられなかった。単刀直入に本題に入った。


「え?なに?…ちょっと…なんのこ…」

「あのピルよ!…もらったあの薬…本当にピルなの?!…」

「…え?…」


とぼけているのかいきなりの話で内容がつかめないのか本当にわからないようだ。陽子はかまわずがなりたてた。


「…2つなんておかしいでしょ!…もしかして両方とも違うんじゃないの?!…おかげでわたし…わたし…」


まずった、と思った。この先は続けられない。言葉に詰まった。何か別のことで取り繕わなくてはと考えて少しの沈黙ができた。


「…」


「…あ…え?…な…」


「…」


「なにかあったのか!陽子!」


今度は突然男が激昂した。とんでもない大声が耳を直撃し、慌てて耳から受話器を離した。


「…なにか…なにか変なことになったのか!…あれ…副作用はないって…」


離してもまだ男の叫び声が聞こえた。怒ってるのではない。明らかに慌てている。


「…あの…あの…ちがう…」


「どうしたんだ!…陽子大丈夫か!…陽子…ようこ…」


受話器をまた耳につけると男は半分泣きべそをかいたような声になっている。激しく狼狽しているのがわかった。


「…いや…あの…たいしたことはないんだけど…」


「…ふっ…ふっ…よっ…え?…」


「…ちょっと熱っぽくなって…じゃあ、本当に…」


唾を飲み込む音の後に深い安堵の溜息が向こうから聞こえた。


「…はぁっ…なんだあぁ……びっ…くりさせないでよぉ…」


だましてる人間の声ではない。


「…でも…大丈夫なの?…熱っぽいって…」


「…あ…まあ…それほどじゃないんだけど…じゃあ、本当にあれ、ピル…避妊薬なの?…」


はっきりした返答を聞きたかった。いまの声の主は嘘をつくそれではなかった。即答だった。


「ピルだよ…正真正銘の避妊薬だ…嘘じゃない…誓うよ…人によって少しは副作用があるってことだったけど…」


「…そう…」


「誓って危険な薬じゃない…合法だし、ネット上といったってちゃんとした名のある薬局から買ったものだし…両方とも処方箋さえあればこの町の薬局でも買えるものだって確かめたし…」


「…そ…そう…」


(…媚薬とかいやらしい薬でもなかったんだ…)


「…でもホントに大丈夫?…お見舞いでも…」


「い…いい…それほどじゃないからいい…いいの…」


「…ん…うん…たぶん一時的なものだと思うよ…それでもだめだったら別なの何とか用意するし…」


完全に陽子を気遣ってくれている声だ。信用足るに充分だった。


「…まずは…飲み続けてみて…ください…」


「…」


「…あ…」


「…?…」


「…あの…えーと…具合よくなってからでいいけど…プレゼント…玄関に入れてきたから…」


「…見たわ…」


「…わかった?…」


「…でも…あんな紙切れ一枚だけで」


「一枚じゃないよ…」


「…え?…」


「…また入れてきた…さっき…」


「!!…」


ぎょっとして玄関のほうを見た。散歩に行ってる間にこの男はぬけぬけとまた家にやってきたのだ。


「…やめて!…これ以上」


「じゃあまたね、陽子…」


電話が切れた。つーつーと鳴る受話器を握り締めたまま陽子は玄関を凝視していた。




電話を切ると武史はほぉっと深い溜息をついた。
よかった。なにがあったのかわからなかったがとにかく陽子が無事でよかったと思った。
それにしてもあれだけ我を忘れた自分が逆に意外だった。いままでろくに女性とまともに付き合ったことがなく、年と共に乾いていく自分の心を哀れに思い、生涯人を愛する事などないだろうと思っていた自分があれだけの激昂を見せたことに、逆に自分でも戸惑いを覚えていた。
これほど一人の人間が頭を支配する事は中学生の初恋のとき以来だった。陽子と最初会ったときはそれほどではなかった。逆にまたいつものように短期間の仲で終わることだろうとたかを括っていた。しかしあのホテルでの夜以来、頭から陽子が離れない。24時間、眠っているときでさえも片時も忘れることはなかった。身体だけを求めているのではないと気づくのにさほど時間はかからなかった。他の女達のように自慰で消し飛んでいく事がなかったのである。これが恋というものかと、まさか少年ではあるまいしと自嘲することもある。

それだけにいまの電話での高ぶりはその思いを確信させるに足りていた。しかしよかったと思うのに罪悪感も混じっていた。

いまの陽子との電話でのやり取り、これは真実だった。しかし同時に半分は嘘だったのだ。

避妊薬は一錠だけだった。もう一錠は、


下痢止めだったのである。しかも店に並んでいるうちで一番強力なものを選んだのだった。


あのまま会話を続けていれば、自分はその事を喋ってしまったかもしれない。しかし真実は秘密のままに終わった。

心臓がまだどきどきしている。これでいいのかと責めるもう一人の自分がいた。不思議な気持ちだった。恋愛感情と罪悪感の裏に嗜虐心が貼り付くように頭をもたげていた。




陽子は受話器を納めた。いまの会話はなんだったのだろう。追う者と追い詰められる者同士のそれではなかった。対等な同士の会話だった。萎縮するままでは相手の思うつぼだと思って、そうならないように努めている自分に気づく。それでいいのだと陽子は思った。それにしても相手があれでは肩透かしを食らったような気がする。しかしある意味、いつかは隙が見えてくるような希望が垣間見えた気もした。タイミングよく踏み込めばなんとか逆転できるのかもしれない。


(なんとか…なる…かな…)


ゴクリと喉が鳴った。それでもいまの現況が再び脅迫された状態に返っていたからである。
相手は間髪入れずに一気に、とは来ない。ある程度期間を置いてゆっくりゆっくりと責めてくるのだ。
陽子はそれがなぜかは気づいてない。一気に落としてしまってはおもしろくないという男の無意識が働いていることに当の武史自身も気づいてないのだ。

歯車が武史さえ予想しない方向に噛み合わさる。いまや誰にも二人の行く末を知ることはできない。言動や行動のちょっとしたことでいくらでも事態は変化していく。
淫虐の神、その手のひらの上に乗って出られなくなってしまったことを、二人とも気づいていなかった。

そして二人はホテルの夜以来、身体を合わせていない。未知の快感という禁断の果実を味わってしまった二人はその扉の鍵を閉じることができなかった。ちょっとしたきっかけでその深い暗闇の中に身を投げる準備は着々と整っている。



目次へ     続く

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