第６８章
生理中のためか体が重くだるい感じがする。
あれから四日、武史からの連絡は一切なかった。あの当日は結局外に出ることがなかったが、買い置きの食料が足りなくなり、ようやく二日目の夜になって近くのコンビニに弁当を買いに出かけた。
コンビニの弁当なんて久しぶりに口にした。野菜と少々の肉があれば事足りたのだが、町のスーパーは既に閉店の時間を過ぎ、仕方なく出来合いのもので済ませたのだ。
とりあえず節約しなければならない。収入は次の給料日までないわけだし、それだってフルに勤務したわけではないのだからかなり少ないはずなのだ。
昨日は開店時間を待ってすぐにスーパーへ買い物に出かけた。なるべく日持ちのする食事ができるように品物を選んだ。料理は不得意なほうではない。タッパウェアと冷蔵庫、それに電子レンジを利用すれば、電力消費を無駄にすることもないのだ。
あらかたの家事と昼食を終えて、陽子は仕事の面接に出かけてきた。あまり良い首尾とはいえなかった。
指定された時間の２０分前には到着することができた。待合室には５人、陽子と同じ年齢層が２人いた。あとの３人はどうみても大学、高校の卒業を終えたばかりの女性だった。陽子の頭を不安がよぎった。確か記憶によると採用は２人だったはずである。
陽子は面接の一番手ではなく、当然待たされることとなった。驚いたのは１人が終えて、２人目が入っていったときの事だった。ドアが開いて２人の女性が入ってきたのである。友達同士らしく待合室でもおしゃべりをしていた。まだ若いがずっと場慣れしている様子である。おそらくいままでフリーターをしてきた人たちなのだろう。他人の事にかまってる暇はないと心に決めたところでまたドアが開いた。
結局陽子が呼ばれたのは４番目だった。そのとき待合室にいたのは８人だった。椅子は既に埋まっており１人か２人は立って時間を待っていた。みな自分より若いように思った。精神的虚脱と生理による体の不調に本来の負けん気が出てこなかった。
面接は普段の陽子から見れば惨たんたるものだった。いつもの陽子なら自身を持って相手に自己アピールできた。しかしなぜかいまは相手の目を見る事さえおぼつかなかった。大きな声は出せず口調もたどたどしく、いつもの流暢で陽気な態度を見せる事はなかった。
陰鬱な気分で会議室を後にした。待合室は１２人に増えていた。たとえ好調な気分でも状況は好転していたのだろうか。
そして今日はまた職安に行ってきてみた。しかたなく見てきたという感じであり、係員に面接の申し出をつなげてもらう事はしなかった。あふれる人ごみに食傷された気分もあって、とりあえずパラパラとカードをめくってめぼしいものを２、３枚コピーしてきただけであった。
そして陽子は翌日の今日、こうして部屋にいる。
気晴らしにと思って長い間放っておいた本を取り出し読んでいた。恋愛小説を読む気にはとてもなれなかった。ミステリでもと思い、挟んでいたしおりを取って読んでいる。しかし半年も置くとなにがなんだかわからなかった。あきらめて最初から読み返してみると、果たして過去にこれを読んだことがあったのかと思えるほど内容は記憶から消えていた。それでもなかなか文章が頭に入っていってくれない。何度もページをいったりきたりしながら時間は過ぎていった。
小一時間もすると携帯がピロピロと鳴った。メールだった。題名はなく、聞いたこともないので仮名を使ったのだろう、初めて見るアドレスだった。
（話がある。いまからそっちに行く。）
（…！！…）
あの男からだととっさに察した。突然の事に身が固まった。
（…い…いまからって…）
本を放り出しおたおたとあたりを探った。なんとはなしに手が頭に行き、髪を撫で付けた。
（…ち…ちがうわ…）
別に親しい友人が来訪するわけではない。身だしなみを整える必要などないことに気づいた。
（…で…でも…にげ…逃げなきゃ…）
急いで外着に着替えた。コーディネイトに気を配る余裕はない。着の身着のままで洗面台で軽く櫛を通すぐらいにした。
そして玄関で靴を履いたそのときであった。
…ピンポン…
（！！！！…）
身体がその姿勢で固まった。物音を立てないように呼吸さえも殺した。
…ピン…ポン…
ドアの外からも音はしなかった。息を潜めてチャイムが寂しく鳴るだけの沈黙が流れた。
このままこの場を離れようと思った。痺れを切らした陽子はゆっくりと立ち上がって部屋に戻ろうと思った。
…じゃり…
（…はっ！…）
よせばよかった。靴を脱ぐときに音を立ててしまったのである。
「…なにもしない…話をしたいだけだ…」
ぼそっと聞き覚えのある声がした。か細い声だった。そして玄関のドアノブがゆっくりと回った。
（…！！！！…）
鍵がかかっていなかった。さっき帰ってきたときに閉め忘れたことに気づいた。震える手をドアノブに伸ばした。
しかしそのときには既に遅く、届くより先にドアノブが向こうに遠ざかっていった。暗がりで救いを求めるような格好をした陽子を日光が晒していった。
男が目の前に立っていた。見下ろすような立ち位置だったが、そこにはいつもの勝ち誇った表情はなかった。寂しげに困惑したような顔がそこにあった。
「…なにもしないから…」
陽子はドアを開けたが最後、男がまた自分をてごめにするのかと思っていた。しかし意外にもいま目の前の男にはその勢いがあるようには見えなかった。
もちろん不信はあったが、いつまでも女所帯に男の立つドアを開けっ放しにしておくこともできない。帰ってほしいといえば帰るだろうか。しかし目を伏せ気味にしてる人間に冷たい言葉をはき捨てる勇気というか心を、陽子は持ち合わせていなかった。
前方をふさがれた陽子は後ろに下がるしかなかった。無言で背中を見せないようにあとずさりながら部屋に返した。
「…おじゃまします…」
またもや意外な言葉に目を見開いた。思わず口をついて出てしまう。
「…ど…どうぞ…」
進められるままに男は居間に招かれ床に座った。
横を向いて宙を見ながら神妙に正座をする姿が別人のように思える。本当に何もする気がないようだ。
「…陽子…僕、考えた…」
ぼそりとつぶやくように男は話しはじめた。
「…この数日間、僕は陽子に一体なにをしてあげられたのか考えた…僕は陽子を求めるばかりで他にはなにもしてあげられてない…」
陽子もテーブルをはさんで向かい合わせに座った。男は顔を上げて陽子を見つめた。
「…就職どうだった？…」
「…」
「…そうか…それが心配で…ずっとね…大変だ…いまの状況じゃ確かに難しいだろうね…」
「…うん…」
「…お金のほう大丈夫？…困ってるんじゃないか？…」
「…うん、いまのところは…」
「…足りなかったら…僕、なんとかする…」
「…大丈夫だから…」
「…い、いや…」
「…大丈夫だから…」
「…そ…そうか…」
「…」
「…」
気まずい沈黙が流れた。居心地の悪い空気に二人ともどうしていいのかわからない感じだった。
「…ぼく…」
「…？…」
「…僕じゃ…だめか？…」
「…え…」
なにを言ってるのか理解できなかった。どう応えていいのかわからず口をつぐんだままになってしまう。
「…いや…いいんだ…ごめん…」
「…あ…」
「…」
「…」
「…うざ…」
「…え？…」
「…こうざ…ばんごう…」
「…？？…」
「…口座番号…教えて…」
なんの関連もないような言葉にいぶかしげに顔がゆがんだ。間をおいて意味がわかるとさらに身がすくんだ。
「…な…なんなの…」
「…銀行の口座番号だ…教えて…」
「…そんな…」
「…教えろ！…写真バラすぞ！…」
「ひっ！…」
目が真剣だった。低く怒鳴ってくる様子に逆らいようもないと思った。
おずおずと棚から通帳を出し差し出した。しかし他でもない、事は金である。本当にぎりぎりのなけなしの生活費まで奪われることに絶望した。
「…許して…それだけは…」
「うるさい！…」
武史はそばにあった折り込み広告のチラシを裏返して口座をメモした。
「…勘違いするなよ…」
「…だめ…許して…」
武史はメモを終わると真剣なまなざしで陽子を見つめた。怒りにも似た声質は依然と変わらない。
「…勘違いするなよ…代金じゃないからな…決して…決して…陽子を買うわけじゃないからな！…」
「…え？…」
そうなのだ。カードを渡したわけでも暗証番号を教えたわけでもない。
陽子は理解した。口座番号だけでは金は払い戻せない。
男は陽子の口座に金を振り込もうとしているのだ。
しかし別の問題が持ち上がる。それでは身体を売ったようなものだ。受け取れない。自分は娼婦でも売春婦でもない。実際生活はギリギリのところにあるがそのように扱われることで自尊心が崩れていくように思えた。
陽子は助けを求めるような泣き顔になって無言で首を振った。
武史は憔悴した生徒を言い含める先生のような声で、しかしこちらも泣きそうな顔で言い聞かせた。
「…生活ってもんがあるだろ…僕の金なんて思わなくていいから…これで僕が優越感を持つようなことはないから…困ってるときはお互い様ってだけだよ…まあ、僕も金持ちってわけじゃないから苦しくないといえば嘘になるけど…」
涙が出た。惨めな気持ち以外にも混在する感情があるのは確かだった。
「…とにかくもうこれは忘れるように…泣くなっ！…こんなことで泣くなっ…逆にこれを気にするようなことがあったらホントに許さないからね…金くれたからなんて態度取ったら…思うだけでも…町中に写真バラまいてやる…」
武史は両手で顔を覆った。
「…金なんかいい…僕は苦労する陽子を見たくないだけだ…」
そう言うと正座からスックと立ち上がった。
「…帰る…」
「…待っ…」
「…いいか…今日のことはすべて忘れろ…」
真剣な表情のまま武史は後ろを向いて出て行った。
ぽつんと一人部屋に陽子は取り残された。事態をどう解釈していいかわからなかった。
夕方になってようやく気持ちの整理がついた。
（返そう…返せるようになったら…返そう…）
そうだ。なんのことはない。再就職して返せばいいのだ。相手の携帯番号も知っている。別れてからも返せるのだ。男の言うとおり、お金のためにつきあってやることはないのだ。男はああまでも言ったのだ。後になってお金のことを振りかざしてきたら逆に別れる言い訳にうってつけだ。お金が原因ならさっぱりと男もあきらめがつくかもしれない。縁を切る口実ができたと思えばこれほど好都合なことはない。
陽子は食料の買出しに行かねばならぬことに気づいた。財布を覗くともうあまり現金の持ち合わせがない。銀行に立ち寄ってからスーパーに行くことにした。
ATMの前に立ち、キャッシュカードを差し込んだ。出てくるときは節約のために１万円と決めていたのを、節約のためにボタンを押す手前で５千円に引き出しを変更した。時間外で１００円の手数料を取られるのはしゃくだったが背に腹は変えられない。バラバラと音がして現金を受け取ると空っぽの財布に押し込んだ。そして続いて出てきたカードと明細書を取るとはたと立ち止まった。
明細書の残高が増えていた。いつもの給料日より少し少ないぐらいの残高になっている。
（…振り込んだんだ…あの人…あれからすぐに…）
複雑な気持ちだった。いつもと違うさっきの怒ったような顔が浮かんだ。実際に手元の数字を見ると悔しさとは違った感情がこみ上げるのが自分でもわかった。
（…確かに…助かる…ありがたい…）
確かにこれで当分里の両親に無心する必要はなくなった。お金の大切さをいまひしひしと改めて感じていた。むやみにこれを使ってはならない。
この多すぎもしない金額がかえって陽子を安心させたのも事実だった。
（これなら返せる…）