第32章
陽子はまた3Fのトイレに戻って携帯を手にしていた。
「…うう…ううう…ひどい…ひどいわ…」
「ヨウコ、また声が聞けてうれしいよ…」
「…なにを…なにをしたの…あのくすり…」
「なに、なんでもないさ…大切なヨウコにぬりぐすりだよ…」
「…う…うそ…」
本当になんでもないジェルだった。ミントジェルに少しだけ山芋のエキスを加えただけのものだった。普通だったらそんなに刺激はないはずだった。しかしいまの陽子にはほんの少しの刺激と、いやらしい薬を塗られたという思いだけで充分の効果を与えていた。
「ところで忘れ物は取ってきた?」
「…取ってきたわ…」
「もしかしてイッちゃったかな?」
「…そ…そんな…いくわけ…ない…」
「でも、また遅刻だね…」
「…う…う…」
「○×通りの△○ホテルに僕はいる…207号室だ…」
「…う…う…」
陽子は携帯を置いた。すると呼び出し音が鳴った。陽子は回線を開いた。
「10時だ…ヨウコ…待ってるからね…」
武史がそういうとすぐ回線は切れた。陽子は愕然とした。いまの通話で陽子は184の番号非通知をダイヤルしなかったのだ。陽子は悔しさに電話を強く握り締めた。
(…ああ…どんどん…引きずり込まれていく…)
トイレットペーパーをガラガラと鳴らし、また足の汚れを拭き取った。無造作に折りたたまれた紙の端が陽子の中心部分に触れた。
「ああっ!…」
身体がいまだ敏感なままだった。全身の神経が剥き出しにされたようだった。身体のどこを触っても衝撃が全身を襲った。
(だめよ…このままじゃ…あいつの…いいなり…)
拭き取ったティッシュを便器に流すと陽子は紙袋を見た。
(大事なもの?…)
時間はまだある。陽子は茶色の紙袋の中身を取り出した。一本の大きな薬品瓶だった。
透明な瓶に透明の液体が入っていた。ラベルに薬品名が書いてある。
(…ぐり…せ…りん…?…消毒液だ…医者なのかしら…それともどっかの工場で働いてて…)
陽子は医学の知識は持ち合わせていなかった。聞いたことのあるようなないような名前だった。薬品のラベル奥には用途の書いてある部分があるが時間がそれほど残ってなかったせいもあり、陽子は気づかずに横に置いた。
袋の奥にまだ何かあった。ごちゃごちゃしていて取り出すとウズラの卵ぐらいの小さな白い玉だった。コードが袋の中に延びていて中には赤い棒状のものがあった。紙袋の中にはそれがもう二組入ってるようだった。
(…なん…なの…?)
みたこともない品物群に見当もつかなかった。何かの仕事に使うものだと思った。自分にはまったく関係のないものだと思った。とにかく大切なものなんだろうと思い、割れやすいガラスなんだからと丁寧にまた紙袋に収めた。
トイレを出るとき気を取り直そうと首だけ振り返って自分の後ろ姿を見た。スカートにはその部分を中心に直径5CMぐらいのシミができていた。
(いやっ…こんなになってる…いやっ…)
気は取り戻せなかった。
陽子は服が身体を擦る電気をこらえながらビルを後にした。
陽子は夜の雑踏の中にまた進んでいかなければならなかった。
全員が陽子を見る客のように思えた。そろりそろりと歩く陽子の姿を振り返らないものはないように見えた。よく見ればスカートのお尻にはシミがある。みんななんて思うだろう。
(みんなわたしをみてる…ちがうの…濡れてなんかいない…みないで…)
うしろでヒュゥという男の声がした。
(みないで…これは…ちがう…ちがうの…みないで…)
また足がヌルヌルこすれていた。
(ちがう…わたし…そんな…おんなじゃない…そんな…わたし…みんなが思ってるような…わたしはこれから…これから…)
陽子は自分の現在の状況を思った。
(…おか…犯されにいくんだ…わたし…これから…知らない男と…好きでもない…男と…セッ…ク…ス……オ…マ…うあああ…)
股間はじわじわと液を吐き出し続けていた。
陽子は少しかがんだ状態でしか歩くことができなかった。身体の奥に小さな火種があってすぐにも炎を吹き出しそうだった。
ホテルの場所はすぐにわかった。隠れるようにして受付を過ぎ、エレベーターで目的の部屋のドア前についた。あたりは静かで何も物音がしなかった。建物全体が密閉された別の空間であるように思えた。
ドアホンを鳴らした。しばらく待ったが何も反応はなかった。またボタンを押したが同じだった。ドアノブに手をかけるとすんなりと回ってドアは開いた。
中に入ってシューズを脱いだ。すでにもうひとつのきちんと脱ぎ捨てられたシューズが玄関にはあった。
「鍵を閉めて…」
奥から声がした。陽子はドアロックとチェーンロックをかけた。カチャリと音がして部屋は外世界と隔絶された。