第174章
(化粧してる…)
ドアが開かれ見た陽子の顔はいままでとはまるで違う印象だった。追い詰められおどおどした様子は全くなく余裕すら感じられ、しかも笑った。
(…どういうつもりだ…)
こんな顔を見せてくれたのは確かに…嬉しいことは嬉しい。しかしその意図がどういうものかわからない。想定外の応対におろおろしかけたのは武史のほうだった。
「なんか飲む?」
なんとなくテーブルを間に正座してしまったところに陽子が立ち上がる。入口を背にしたので台所は武史の後方。陽子がすぐ脇を通って空気が流れた。香水もつけている。どぎまぎした。
「お茶でいい?といってもあなたのだけど。」
「ん、うん」
また芳しい香り。香水も混じってはいるが大部分は知っている匂いと気付く。女の匂い、陽子の香りだ。鼻がおかしくなったのかと思うほど強い。…いや違う。強いのではなく香水がカムフラージュして、逆に目立たせているのだ。
「仕事、大変だね。」
「え?」
「残業、普段からこんなに忙しいの?」
「あ、いやたまにあるだけ。」
「今日は休みなの?」
「…うん。」
いったいどういうつもりなのだろう。いままでと違い陽子は怖れなしに話しかけてくる。やはりこの前の酒盛りのせいだろう。どうやら自分は恐怖の対象ではなくなったようだ。しかし普通なら嬉しく思っていいのだろうが、この状況を武史は想定していない。そのような関係ではどう接していいか分からないのだ。大体初めからまともなつきあいじゃない。のっけから変態行為に及んだ間柄だし、陽子も嫌々言いながらも歓喜の声を挙げた。やり直しなどきかないし、付き合うような男であり得ないことは百も承知のはずだ。だから真意がつかめない。
「朝から来るなんて初めてじゃない、びっくりしちゃった。」
「なるほど、そういえばそうだね。」
そうか。明るいうちだから安心しているのだ。真昼間からいやらしいことはまさかしないと思っているのか。いやそれはない。前に一度あった。顔に白濁を浴びせたことがある。この場所で…
(…っ…)
それを思うと股間がうずいた。いままたここでズボンを降ろせば…どうなるだろう。同じような雰囲気にはならないように思える。確かに満足させてはくれるだろう。しかし"はいどうぞいらっしゃい"というような感じになりそうな気がするのだ。そしてそれはきっと違う。自分もそうだが…当の陽子もきっとそういうのを望んではいない。
「お酒…あるよ、飲む?」
「まだ明るいよ。」
「えへへ、弱いもんね。」
陽子が悪戯っぽく微笑んで言った。いきなりかよ、また酔わせる気か。
しかしこの一言がきっかけとなってしまう。陽子は口数の少ない男との会話の空白を埋めるためなんとなく言ったに過ぎない。だが武史の見方は違った。
(…逃げてる…)