第109章



蛇口を開いた水の音と冷蔵庫を開ける音がする。陽子はテレビを見ながらちらちらとその様子を伺った。ガスコンロを開き鍋を載せ、ボールに卵を割っている。


「ああ、封開いてないなぁ。合成じゃなくってこういう自然のものから、しっかりとだし取ったほうがずぅっとうまいんだよ。」


「…あ、うん…」


陽子は適当に相槌を打った。おそらく男が買ってきたにぼしのことだ。いや、だし昆布のことか。袋を開けたときに久しぶりに見たものだ。前の彼氏、聡ともほとんどが外食だったので陽子は自分一人の食事にわざわざ手を掛けたことがなかった。

見ると男はまな板の上でさくさく野菜を切っている。手馴れたものだ。きっとつましい一人暮らしを送っているのだろう。鼻歌まで聴こえてきた。よほど料理が好きらしい。変な男だ。

陽子はいつしかテレビに見入っていた。そういえばこの部屋でこのような落ち着いた時間を他の人と過ごす事があっただろうか。友人をおしゃべりに招くときでもコンビニで買い込んだ品物で、聡とはろくに時間もなく淡白なセックスと睡眠で終わっていた。陽子は思った。もしこれが恋人とであったらと。できれば自分が厨房に立っているほうがいい。恋人のために鼻歌を鳴らしながら料理を作る。
そんな、よく普通に聞く単純なことがなぜ自分のこれまでにあり得なかったのか。なぜこの男が恋人ではなく卑劣な強姦魔なのか。どうしてこれに気づかず自分はこんなに歳をとってしまったのか。

調理は30分強にも及んだろうか。皿が運ばれてきた。野菜の煮たものと香物が小鉢に、吸い物とごはんが茶碗に二人分並べられた。


「じつはごはん、あらかじめ炊いてたりして。」


男はにっと笑うと箸を丁寧に陽子の前に並べた。そしてまた来たかと思うと、大きな皿をテーブルの真ん中にごとりと置いた。


(…うわ…)


大きな卵とじの中に蟹が見える。あんかけの芙蓉蟹だった。まるで店に出てくるような料理に陽子は驚いた。


「さ、食べましょう。はい、いただきます。」


男はれんげでケーキのような料理をさくさくと切り食べやすくした。


「んー、ま、こんなもんだな。」


男は吸いを啜りながら頷いた。陽子も居心地が悪そうにお椀を取った。


(…!…)


うまい。あさりの旨さがすばらしい。陽子はたちまち食欲を催し、各料理を口に運んだ。あまりに意外だった。なんだこの男は。


「…プロ?…」


「んあ?」


「…板前さん?…」


ぷっと男は吹き出した。


「んなわけないよぉ。」


「すっごくおいしい…ですよ…」


男は嬉しそうに笑った。


「…こんな作れるなんて…」


男はおどけて考え込むような目をして言った。


「簡単なんだけどねぇこんなの。インスタントだったらもっとあっという間。」


"だったら"?インスタントは使ってないというのか。


「全部作ったの?」


「そだよ。」


「…へーっ…」


「だから簡っ単なんだって。」


箸が止まることなく動いた。遠慮なしに陽子はばくばく食べた。それほど旨かった。結局芙蓉蟹は陽子のほうが多く食べた。最後の箸を口に運んだところで男が言った。


「お替りはないです。もっと作ればよかったかな。」


「ん、もういい。ごちそうさま。」


笑顔でそう言いたかった。しかし理性がそれを止める。陽子は感謝の意を少し浮かべた程度でなるべくそっけなく答えた。

男は食器を片した。また両手で陽子を制し、自分がやるから座ってろと言った。食事前とは違って陽子はリラックスした気分と姿勢で満腹感を味わった。

やがて男はふきんでテーブルを拭き、戻ってきた。


「はいお茶。」


これも男が入れてくれた。なにからなにまで男がやってくれる。正直悪い気分ではなかった。茶碗二つと菓子皿一つ、食事前のテーブルの光景に戻り、二人はしばらくの間テレビを眺めた。





「…眠くならない?…」


番組が終わった時間の切れ目に入ったときだ。CMを横目に男が聞いてきた。

なんでそんなことを聞く。無言で陽子は身構えた。つい忘れていた。男は食事を作るためだけにここへ来たのではないのだ。まさか…


「…なんか入れたの?…」


いぶかしげに尋ねた。陽子の困惑を男も感じ取ったようだ。首を振って男は答えた。


「…入れてないよ…食べた後は眠くなるかなって思っただけだ…」


二人はお互いを見据えた。ある程度の時間が過ぎ満腹感が引いてはいたが、いま実際眠くなどない。思い過ごしのようだ。


「…そう…」


なんとなく沈黙ができた。二人ともテレビに逃れるように目線を移した。

気まずい雰囲気になってしまったと陽子は後悔した。やがて男がゆっくりと陽子に目を向けた。やはりなんとなく緊張がよぎる。陽子はテレビから目線を動かさなかった。


「…入れてほしかったか…」


(…!!…)


一気に緊張感が高まった。顔を動かすまいとしても目線は男のほうに向いてしまった。男の言葉は、陽子に尋ねたのか、それとも男自身がつぶやいたのかわからない、あいまいな語尾だった。

男は真剣な目で陽子を見つめた。陽子はどう対応していいかわからない。陽子の目は、怖れ、驚き、落ち着き、覚悟、のどれとも取れるものだった。


「…そんなわけないでしょ…」


そう言うと陽子は自分から目線をはずした。しかし男は無言で陽子を見詰め続けていた。

武史は見た。いま陽子が目をはずしたと同時に身体をぶるっと震わせたのを。陽子はテレビに目を戻さず、置き所がないようにもじもじしていた。

武史はすっと立ち上がった。陽子は怯えるように身体をびくっと震わせた。しかし武史は通り過ぎそのまま台所へ向かった。深呼吸をしてグラスを一つ出し、冷蔵庫から取り出したペットボトルのウーロン茶をグラスに注いだ。そしてポケットから取り出した小さなカプセルを手に隠し持った。

テーブルに戻ってきた男がグラスを陽子の前に静かに置いた。


「…お茶…」


陽子はそれをじっと見つめた。


「…冷たいお茶だ…」


飲めるわけがない。こんな話をした後で新たに持ってこられた飲み物を口にはできるはずがないではないか。しかしなぜか陽子は飲んでしまいたい衝動に駆られた。胸がどきどきしている。これを飲めば…飲んでしまったら…


「…冷たいのはいまは…」


陽子の手が持ち上がった。傍目から見てもぶるぶると震えていた。

すると男がグラスを取り上げた。


「じゃ僕が…」


男はグラスを一気に飲み干した。陽子はあっけにとられた。

男は陽子の湯飲みの残りをその空いたグラスに注ぐと新たにポットから急須にお湯を入れた。


「…陽子…媚薬は持ってない…」


急須から新しいお茶を注ぎながら男は言った。


「…確かにこの世の中に媚薬はある…惚れ薬は作ったらノーベル賞らしいけど…少なくとも媚薬は持ってないよ…陽子に飲んでもらってる薬もピルだし…」


そう言うと男は自分の分も新しくお茶を煎れた。陽子は安心した。単に脅かすつもりだったのだ。わからないように深いため息をつくと陽子は差し出された湯飲みを手に取った。



そして武史は自分の湯飲みを持ちながら陽子を見ていた。心臓が飛び出さんばかりにバクバク動いていた。心臓音が聴こえやしないかと心配するほど息を殺して陽子を見守った。

武史の手の中には空のカプセルが握られていた。いま陽子が手にしている湯飲みには薬が入っている。お茶を煎れる際にすかさず混入したのだ。市販のカプセル薬は普通密閉されて開かない様になっている。しかしドラッグストアには粉薬を飲みにくい人用に、カプセルだけ、のものがあるのだ。それは当然キャップ式でしかも全く透明なため握っていてもまず気づかれにくかった。数日前から武史はカッターで中身を取り出しそのカプセルに移し替えておいた。すぐに使わなかったのはある程度の時間をおいておく必要があったからである。



薬の効用は便秘薬。

けして強いものではない。しかし即効性のものだった。



緊張で喉がカラカラになってしまったのか、陽子はなにも知らずに安心しきって湯飲みを飲み干した。



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