第一章


昨日から左あご下にできてるニキビが痛い。26歳にもなるとニキビとは言わず吹き出物といわなければならないんだろうか。
別れた聡の言葉がまだ残ってるようだ。陽子が遅い残業を終えて待ち合わせの居酒屋に急いだのは金曜日の夜。10時をすでに回っていた。
聡はすでにできあがっており、携帯で誰かと話をしていたが陽子が来るとそそくさと切った。
「7時には大丈夫っていってたじゃないか。携帯も通じないし」
残業で疲れてさらに急いできた体には少しつらい言葉だったが自分が遅れたんだからと文句を押しとどめた。
「仕事中は携帯はマズイの。メール入れといたんだけどな。ごめんね。」
「え、そうなの?」聡はポケットから電話を取り出し、しばらくボタンを押していた。
「あ、入ってるわ」そういうと憮然とした態度のまま、グラス四分の一ほどになったビールを飲み干した。「だけどちょっときついな。こう残業が遅いとゆっくり会える暇もないよ。」
「あたしもビール頼も」陽子はそういうと忙しさが一段落してカウンターにもたれてる店員に注文した。ビンに残ったビールを聡のグラスに注ぎ、自分の分を待った。
「あたしも考えなきゃと思ってるのよ。ここまでひどいところと思ってなかったから。」


本郷陽子は中途採用で今の会社に入った。前の会社が不況に耐え切れずにリストラを推し進めるのを余儀なくされ、ついに優秀な社員であったはずの陽子にまでその波が押し寄せてきたのだ。陽子は地方の国立大学を出て電算技術の国家資格を持ってSE(システムエンジニア)の職業に就いていたがそれは前に勤めていたときのことだ。横文字なので華やかな職業と思われがちだが、資格をとる人間が多い昨今、SEとても中途採用の女性では職安で必死に早取り合戦を繰り広げるしかない。今の会社もそうして勝ち取った。メインではなくサブのSEなので楽になるかと思ったがそう易くはなかった。いわばトラブル要員である。休日でも携帯がなれば会社に飛んでいかなければならない。といってもSEの仕事がなければ普通勤務は業務の手伝いという割の合わない仕事だった。他にSEがいないわけではないのだが陽子元来の「世話好き」な性質が皆に慕われると同時に頼られてしまう、悪く言えば押し付けられる便利屋さんになってしまっていた。頼られるのは陽子の外見からだとも言える。身長155CM体重50Kgとふっくらとしていたが着やせするタイプで、まあ5人女性が集まれば一番美しいといわれるだろう。胸もふくよかにDカップの下着を着けていた。ショートカットの切り揃えた髪の下に凛とした理知的な美しさがあった。仕事以外のことは一部の仲のいい者を除いて会社で明らかにはしない。だから男たちもなんとなく近寄りがたかった。

しかし本当は陽子本人のプライベートは違っていた。会社を一歩出ればクールさは消え、休日、夜のすごし方を楽しみに考える。無邪気に笑いながら少なくなった友人と屈託のない長電話をする、普通の女の子だった。

ビールが来たところに聡が言った。
「出よう」
「私も飲みたいの。注いでよ。」
「いや、出よう」

店を出ると聡はすぐ陽子をホテルに連れ込んだ。入るなりすぐ聡は陽子の体を求めてきた。しかし酔いのせいもあってか"役には"立たなかった。もともと聡はSEXに淡白なほうだった。陽子もどうしていいかなすすべもなく自分だけシャワーを浴び、戻ると熟睡してる聡に寄り添い、そのうち互いに背を向けた。聡の大きないびきを聞きながら陽子は壁を見つめていた。最近ゴブサタだ。会っても聡はグチばかり。ホテルへ入るのも思えば久しぶりだ。さっき聡が酔っていなければたぶん抱いてもらえたんだろうに。
陽子はいつしか服の中に手を滑り込ませていた。乳首はすでにピンと張って触っただけで体がビクンと震えた。下半身に手をもぐりこませるとささやかな茂みの奥に汗とは違う滴りがあった。突起に触れるか触れないかのところに指を這わせ、やさしく動かす。
(SEXだとイケないから…)声を押し殺しながらゆっくりと指で突起を弄んだ。
陽子は聡との行為で達したことはない。聡とのSEXは聡がスキンの中に放出するだけの行為だった。処女を捧げたのは25歳と遅かった。男性は聡しか知らない。余計なプライドが邪魔してなかなか男性と付き合えなかった。友人の多くはもう結婚している。半数は既に子供もいる。
(私だけだ。)
陽子の人生だけが空虚だった。
聡のいびきが部屋に響く。その音に隠れるように陽子はベッドの片隅で声を押し殺して喘いでいた。

「イ…ク…」

自然に出た言葉ではない。友達にもらったレディースコミックを見て男女の行為はそうやって絶頂を極めるものだと頭で知っているだけだ。聡とするときもこう言えば喜んでくれた。
軽い絶頂である。しかしそれしか経験のない陽子には充分だった。
(でもいまは聡がいる。)
幸せを感じて陽子は眠りについた。

聡が別れを告げたのは今朝のことだ。まだ6時だったが聡に起こされた。もう既に付き合ってる別の彼女がいると言う。昨日陽子と会う前に電話してた娘だろうか。聡は意思を告げるとほかに何も言わず出て行ってしまった。聡は今日休みだからいまからその娘と会うのだろう。
陽子は小一時間動けなかった。
(捨てられた…捨てられ…た…)
なぜか涙は出なかった。
(そのぐらいの思いでしかなかったのかな…)
陽子は支度をしてホテル代を払い、帰った。態度は毅然としており家路途中でも涙は出なかった。

しかし独り暮らしの家で無気力なままになにもしないでいると、じわじわと悲しみが陽子を襲った。不思議と聡のことは頭に出てこなかった。ただ、
(また独りぼっちだ…)と悲しくなってやっと涙がこぼれた。
偶然傍らにあったレディースコミックを手に取った。パラパラとめくるとそこには幸せな二人の健全な愛し合う姿が描かれていた。涙が止まらない。なぜこんなものを見ながら泣かなきゃならないのか自分でもおかしく思えた。そのうち、雑誌をめくっているとある広告が目に入った。
"伝言ダイヤル 素敵な彼氏をゲットしちゃおう きっとあなたの想いは通じます 女性は無料です"
陽子はしばらくその文字を凝視していた。

(すてきなかれし…まさかね…)

陽子は首を振り雑誌を閉じ、部屋の掃除をはじめた。ごみや食器を洗い片付け、テーブルをどかしハンドクリーナーでホコリを吸い上げる。テーブルを戻しグラスにお茶を注ぐと意識的にベッドの下の隠し棚に目が行った。
さっきの雑誌を片付けた棚である。陽子はせっかくしまった雑誌をまた手にした。
携帯を手にし先ほどのページを広げダイヤルボタンを押した。
コンピュータの応答にまずは安心した。難なく自分のBOX番号が取得できてすぐさまメッセージの録音が始まった。

「あ、あのはじめまして。初めてなんでなにもわからないんですけど…ふられちゃって…いま独りでさびしいんです。誰か…はなしだけでも…に、26歳です。」
電話を切ってから陽子はそのまま動かなかった。

(なにをしてるんだろうわたし…)

心が空っぽのまま陽子は出社した。少々遅刻をした。でもまだ眠い。
どうなとなれと陽子は上司に辞める意思を告げ届を出し飛び出すように会社を出た。
上司はそんなはずはないのに代わりなどいくらでもいるという風な態度でとどめもしなかった。
なにも考えられなかった。伝言のこともすっかり忘れていた。


しかし、陽子はまだ気づいていなかった。伝言の広告の隅に


「アブノーマルな出会いもね!!」

と、書かれていたことを。



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